明治20年頃の岸和田城周辺拡大地図




岸和田城
天守閣は江戸時代文政年間に落雷で焼失してから
再建されることはなかったので、当然明治時代にも
存在していません。
明治4年には残っていた矢倉などもすべて取り壊され
おそらく同時に三の丸の屋敷などの建物も取り壊されて
しまっていたようです。
城の東側の堀には水はすでになく、石垣のみ。
現在の宮入コースの市役所あたりはまだ更地です。
二の丸へは北側からの道がなく、宮入は小半坂を直進
していたようです。

岸和田港
古城川河口の北側の出っ張りは波切不動のあった不動崎です。
南側には港を浚渫したときの土砂を積み上げた丘
があったようです。(不動崎も土砂を積んでできたそうです。)
まるで旧大阪港の天保山のようです。







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